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<2019年>だれも分断しない、本当のエンパワメントを心に描く年明けです



新年あけましておめでとうございます!


今日は七草がゆの日でしたね。皆さまいかがお過ごしですか?


さて、新年早々、色んなことがありました。

はじめてのラジオ出演からはじまり、今日は私としてはとっても大きな意味を持つ日になりました


つい先日、「ヤレる女子大生ランキング」と称し、数々の大学を実名で掲載した週刊SPA!の記事が大きな反対署名を呼び、たった3日で2.5万筆近い署名を集めました


私も、日常のこういった出来事にちゃんと向き合いたくて、ビデオを送らせて頂きました 発起人の方は勿論、署名して下さった方、ご覧下さった方、シェア等して下さった方、ありがとうございました。


そしてついに今日、週刊SPA!が謝罪文を公表するに至ったのです。

これは、すごいことです。


2018年のはじめ、ゴールデングローブ賞でOphraがしたスピーチ、彼女の、「もう誰も、#metoo なんて言わなくて済むように」、「新しい日は、もうすぐそこ。」昨年は彼女のスピーチを折々で見ては、励まされ、癒され、涙が止まらなくなっていた私ですが、その言葉が、実感を持って、私の中でまた輝き出した、そんな瞬間が、今日でした。



でも一方で、今になって、心潰れそうな私もいます。



ひとつは、今回謝罪を頂いて、確かに目標は達成されました。でも勿論これで、すべてが変わった訳ではなくて、むしろほんのはじまりでしかありません。一歩踏み出してみて、歩くべき道の長さを改めて身をもって感じてしまったぞ 長いぞ Oh.....、そんな感覚。


そしてもうひとつは、全然強くなんてなれていないままの自分の一部が、今とっても苦しいのです。

今回の署名活動を見て、「すごい!」と思って、なにかチカラになりたくて、すぐに動画を撮って、言葉にも残しました。そして、これらをすぐ行動に移した私は、沢山のひとたちと出会う中で、empowerされ、自分のことを大事にしても良いと頭でも心でも知っている、多分皆さんがよく知ってる私(笑)です。


でも私には、もうひとりの自分がいます。その昔、「いい女」の枠に自分を押し込み、そうすることでしか自分に価値を感じられなかった私です。心も身体もどんなに傷ついたって一生懸命もがいてた、私です。その時の自分が、「あの時の、私は、努力は、必死の呼吸は、無数の傷は、なんだったの?今みんなが非難する枠に当てはまることでしか生きられないと必死だった私は、どうしたらいいの?」と、あの時の自分が取り残されている感じが拭えないのです。



私はたまたま英語を学んで、海外にも行って、もっと自由になっていい、自分の心を大事にしていいって、ほんとに思えて、帰ってきました。知りもしない誰かの望みに自分をあてはめようと生きなくても、私の価値はなくならない。それでいいし、大丈夫。むしろ、心なんか死んだまま、殺したまま、誰かに刹那な満足を与えて自分の存在価値を感じられるために上辺の綺麗な笑顔を作るより、多少くしゃっとしちゃっても、心からの笑顔でいられるほうが、全然素晴らしいって、こころとからだで知ることが出来た。


だから私はいま、自分たちを大事にしてくれない環境に、なんでないの?って思えるし、今回の件も、もういやだよって、思えることができました。


でも、昔の自分なら、こうやって立ち上がる人の声なんて、聞きたくなかった。その仲間にも入りたくなかった。

なぜなら、「男の理想に生きるなんてまっぴら!」って言葉は、その枠が生きる世界の全てで、そこにすがらなきゃ生きていけない、それだけが自分の存在価値だと感じる私にとっては、まさに凶器だったから。

そういう言葉を聞くたびに私は、元気で全うな、明るい世界の住人に、「自分を愛せない、大事に出来ないだめなやつだ」と言われるような気がして仕方なかった。ただでさえ必死にかきあつめた存在価値を、いともたやすく蹴飛ばされてしまうような、そんな感覚。そしたらもっともっと、心は固くなって、明るい世界に背を向けて、その分もっともっと、誰かの求める枠にはまろうとした。そしてそうすればするほど、その枠は小さくなって、ただひたすらに、追いつめられた。それが、その時の私の必死な必死な生だった。



でもほんとはさ、誰かの求める枠なんて追求したところで、はまる訳がないし、そもそもそんなかっちりした枠なんて、ないんだよね。だからこそ、突き詰めれば突き詰める程、自分の首はしまっていくし、枠は小さくなるばっかりで、つま先立ちでも歩けない、そんな世界が、全てになってしまう。



そして私は、あのときの自分をまだ否定は出来ない。だって、あの瞬間は、あれが精一杯で、必死に、出来る限り、頑張って生きてたんだもん。


だから私はあのときの自分に、「声をあげよう」と、言う気になれない


でも、もしあの時の私に声をかけるとするならば、「いま生きてる世界、生き方を変えたいなあと思うなら、その思いは、大事にして欲しい」って、言うと思う。きっと、必ず、そのための選択肢はあるから。すべては、願うことからはじまる。だから、その思いだけは、大事に、殺さないであげてほしいんだよね。

(そしてもし今読んでくださるあなたが社会を作る側のひとならば、是非、誰かが変わりたいと思ったときに、「あそこいけばいいかも」とか「あんなひといたな…」とか、そういう選択肢をとにかく増やす仕事を是非ともして頂きたいです。というかそれが社会を作る人たちの責任です、と私は思っています。私もがんばる)


誰かの枠にはまろうとするばかりだと、きっといつか、キツいな、って日、来るから。


そんな日が訪れた時に、今回のような署名が、その人の生きてきた道や必死の生を否定してくる凶器としてではなく、「そういえばこんなひともいたな〜」とか、「そんな感じでも生きてはいける世界もあるのかな〜」とかって、心の選択肢を増やすような、そんな記憶になってくれればいいな。


なんて思ってたら、

ちょっと私の気持ちも落ち着いてきたぞ。


今、私は、ああいう記事に「もうやめようよ」と言いたいと感じるし、言える存在でいたいなって、感じてる。だから、私はこれからも、言いたいときに、言える分だけ言えること、言っていくよ。そうやって、その時その時、いけるひとがかわりばんこで、草を刈って、道を作っていけば良い。私はそう感じています。


ちゃんと頼ってもらえる、強くて優しい、器の大きなひとになれますように。


2019年、

希望の種を蒔く1年にしたい。

そして希望を蒔くからには、そこからうまれる責任を、大切にしていきたいです。



昨年の、全ての出会い、ご縁に感謝します。

本年もどうぞ、#なんでないの をよろしくお願い致します



Kazuko




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